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vol.116 #37 浜下 瑛

vol.116 #37 浜下 瑛  『どんなときでも求められていることに対して結果で応えられる選手になりたいです。』

浜下瑛を構成する2つの
キーワード
「個の力」と「集の力」

サッカーを始めた年齢ときっかけを教えてください。

6歳、小学1年生の頃から始めました。2歳違いの兄がサッカーをしていて「僕もやりたい!」と言ったそうです。小学校低学年の頃から上の学年にまざって出場していました。巧い方だったと思うんですが、ずっと必死でしたね(笑)。

サンフレッチェ広島のJrユースへ入団した経緯を教えてください。

セレクションを受けて中学1年生から入りました。広島で一番強いチームと言えば「サンフレ(サンフレッチェ広島)」。選んだ理由は、それ(強いから)一択でした。

子どもの頃に最も学んだことは何ですか?

小学校時代は主に個の部分を学びました。自分を伸ばすこととか、前を向いたらドリブルで仕掛けることですね。そして、中学校時代は「集(しゅう)の力」です。周りのレベルが高くなってくると、個だけでは勝てない。その中で『集』の団体力を教わったと思います。また、サンフレッチェのJrユースで指導していただいた沢田謙太郎監督(当時)がすごく熱心な上に人格者で、とても良い影響を受けました。

『集の力』。独特の表現ですがご自身で考えた言葉ですか?

そうですね。何という言葉で説明したらいいのかなと思ったのですが、たまたま出てきた言葉です。特に教わった言葉ではないです。

その頃に影響を受けた選手はいますか?

Jrユースの先輩だった茶島雄介くん(現・サンフレッチェ広島)、中山雄登くん(現・ザスパクサツ群馬)に影響を受けました。僕は身長が低くて悩むことが多かったのですが、茶島くんも雄登くんも小柄なのに活躍している姿を見て影響を受けました。映像を観て、ドリブルを真似したりもしましたね。


サッカー部の
キャプテンに就任!
なのに、フットサルで日本一!?

瀬戸内高校時代、キャプテンを任された理由をどう捉えていますか?

運も良くて、1年生のときから試合に出場させてもらって、結果的に3年間通して出場させてもらえました。ただ、振り返ると考え方が本当に子どもだったと思います。(そういう背景もあって)3年生になったときに監督から「感覚だけではサッカー選手としてやっていけない。周りもちゃんと見なければいけない。私生活も含めて責任感を持てるようになってほしい」と言われてキャプテンを任されました。本音を言えば、最初は本当に嫌でした(苦笑)。

どんなキャプテンでしたか? また、高校時代の成績は?

正直、僕一人だけだと無理でした。周りを見ることができて、頭も良く、頼りがいのある副キャプテン。僕と一緒にプレーで引っ張ってくれる副キャプテン。その2人の助けを借りて二人三脚ならぬ、三人四脚でキャプテンをやらせてもらいました。当時、瀬戸内高校は強くて、夏の県総体を3連覇しました。ただ、冬の選手権には残念ながら一度も出場できませんでしたね。

フットサルもしていたと耳にしました。

瀬戸内高校として「U-18フットサルトーナメント2013」という大会に出場する機会がありました。(Fリーグ屈指の)名古屋オーシャンズのU-18なども出場するくらいレベルの高い大会で、相手チームがどこも本当に巧くて! 僕らは本当に全員が必死でした。フットサルの大会なのに、サッカーみたいに戦って(笑)。そして、結果的に…。実は、優勝しました(笑)。日本一になったんです! ビックリしましたよ。
https://www.youtube.com/watch?v=2G_FxtCpWSg ※産経新聞社主催、公式映像)

サッカーとフットサル。同じように見えて動き方も考え方も異なる競技なのでは?

実際その通りです。ただ、高校時代の監督(安藤正晴監督。現・瀬戸内高校校長)が偶然にもフットサル元日本代表の選手だったんですよ。手取り足取り教えてもらいました。

タッチ数の細かい浜下選手のドリブルはフットサルも影響しているんですかね?

その影響はかなり大きいと思います。

サッカー部の話に戻ります。当時のポジションは?

ボランチでした。[4-4-2]でダブルボランチのどちらかと言うと少し前。トップ下っぽいポジションを取っていました。(サイドは)プロ入りしてからです。大学もボランチでした。

プロを意識したのはいつ頃ですか?

小学生の頃から漠然と意識していましたが、本当に意識するようになったのは大学3・4年生の頃だったと思います。

プロへの険しい道を超えて
人とのつながりに
心から感謝

広島から関東(神奈川県)の産業能率大学へ進んだ理由は?

人とのつながりが大きく影響しています。高校1年生のときに国体選手に選んでいただいた際の指導者が産業能率大学にいました。加えて、長友佑都選手のトレーナーもされている木場(克己)さんとも国体を通じて親しくなったんですが、その木場さんが産業能率大学に携わっていることも進学するきっかけになりました。

どんな大学時代でしたか?

苦しさも楽しさもありましたが、どちらかというと苦しんだ記憶が多いです。大学1・2年生のときは関東リーグ2部に所属して、相手も強くて楽しかった印象が強いです。サッカー部への応援も大きくて、充実したサッカー生活でした。ただ、大学2年生の最後に降格してしまって、大学3・4年生のときは神奈川県リーグで戦うことになりました。当時の県リーグはレベル的には高くなかったので、10-0で勝ったり、相手が8人だったり…、そういう環境でプレーすることは苦しかったです。

プロのスカウトとつながるのは難しかったのでは?

正直に言うと諦めていた部分もありました。スカウトの方が見に来てくださることもなく、環境的にも巧くなれないというか…。(質の高い)実戦が一番成長できると思いますが、そう考えるとかなり難しい環境だったと思います。

プロ入りまで道のりを教えてください。

幸いにも監督が顔の広い方で、大学4年時には、カターレ富山やアスルクラロ沼津などいろんなクラブの練習に参加させてもらえました。1週間ほどの練習参加を経て、週末に練習試合ということが多かったんですが、残念ながら自分の実力を発揮できず、オファーにつなげられませんでした。

その状況から栃木でプロ生活を始められた経緯は?

そこが面白いんです。栃木の横山雄次監督(現・AC長野パルセイロ監督)は、僕が大学1・2年生の頃に、湘南ベルマーレでヘッドコーチを務められていました。そのときに、湘南の練習試合で人数が足りないときなどに呼ばれていたんですよ(※産業能率大学は湘南のオフィシャルクラブパートナー)。横山監督はそのときの僕のプレーを覚えてくださっていたようで「栃木の練習に一度来てくれ」という話が進み、1日だけの練習参加が実現しました。短い時間だったんですが、いままでのサッカー人生で1番じゃないかってほどに調子が良くて(笑)。その1日で決まりました。

人の縁に恵まれているタイプですか?

そうですね。親からも「アンタは周りに恵まれてるから大丈夫!」と言われたことがあります(笑)。横山監督がいらっしゃらなければ、栃木に入ることはできなかったと思います。

転機をチャンスに!
プロサッカー選手
としての成長

プロ入り直後。第2節・岡山戦(0●3)で早速プロデビュー。

緊張して覚えていませんが、0-3からの途中出場で「やってやろう」というよりも「やるしかない」という気持ちでした。内容的にはまだまだでしたが、結果としていいパフォーマンスを発揮できたと思いますし「通用する部分もある」と自信にもなりました。

プロ初年度のシーズンを折り返す頃にはレギュラー格に。転機はありましたか?

そのシーズンの前半戦は途中出場もしていたんですが、練習では1番下手と言うか…。プロの世界に圧倒されてしまって、落ち込んで、悩みました。また、僕は黙々と練習するタイプで、その時期も黙々と練習に取り組んでいたんです。そんな僕のサッカーに向き合う姿勢について、ヘッドコーチは(僕のことを思って)厳しくアドバイスをしてくれたのですが、自分自身が上手くいかないこともあって(コーチを)無視してしまったんです。そして、そんな僕の態度に気づいた横山監督からも「お前! 無視すんなよ!! 声出して取り組めよ!!!」って厳しく怒られました。本当に子どもの対応でした…。でも、それをきっかけに気持ちの高ぶらせ方を学べたので、僕のサッカー人生において大きな転機だったと思います。

第21節・千葉戦(0●1)から出場機会を得ています。その転機と同時期の話ですか?

そうです、まさに千葉戦の直前です。横山監督は不思議な監督で、その週に怒った選手を試合に起用する傾向があったような気がします(笑)。正直なところ、千葉戦でそんなにいいパフォーマンスができたとは思いません。だから、次は出場できないだろうなと思っていました。ただ、翌節の第22節・町田戦(1○0)で(西谷)和希くんが累積警告で出場停止ということもあってか、2試合続けて先発出場の機会を得られました。そこで、いいパフォーマンスを発揮できたことで自信が生まれ、変われたと思います。

栃木で最も学んだことは何ですか?

ドリブルなど、個の成長です。前線で持ったときは自由にプレーさせてもらいました。チームメイトも信頼してくれて「前でボールを持ったらドリブルしろ」と言ってくれていました。実戦で自分のプレーを試せた経験は大きかったです。

残留争いもあり、栃木での2年間は決して安泰ではなかったと思います。精神面の変化はありましたか?

プロ1年目はとにかく必死だったので、何も考えず楽しくできたように思います。2年目は多少周りを見る余裕ができて、チーム戦術についても考えることができるシーズンとなりました。ただ、上手くいかないことも多く、勝てないときはかなり苦しかったです。そのタイミングでは、夏に加入した乾大知選手(現・松本山雅FC)からの一言が転機になりました。大知くんは「お前は中心だから黙ってプレーしていたら駄目だ。もっと要求した方がいい」と言ってくれました。それを機に声を出す機会を増やし、プレー中もかなり意識して要求するようになれました。ありがたいアドバイスだったと思います。

徳島で成長を遂げたい

徳島移籍の経緯について教えてください。

徳島のサッカーにかなり興味は持っていました。実は、プロ初年度のオフにも徳島から「少し興味を持っている」という話をうかがっていたので、多少意識をしていたのかもしれません。正式なオファーをいただけるとは思ってなかったんですが、オファーが来たときに迷いはなかったです。より高いレベルを目指そうと思っていたので、迷わず「行きたい」と伝えました。

徳島についてどんなイメージがありましたか?

主導権を握るイメージです。また、随所で個の部分を輝かせながらも、どちらかと言えば『集の力』が強い印象です。栃木では個を伸ばしてもらって、次の課題は『集の力』だと考えていたので、自分には最適なクラブだと思いました。

実際に加入し、ギャップはありませんでしたか?

実はかなりありました。僕が思っていた以上に、全員が巧かったです(苦笑)。クオリティが高くて、栃木の1年目と同じく自分が一番下手だと思いました。でも、失うものはありません。ただただ必死にやっています。

開幕戦で先発出場を掴み、3得点で快勝。

相手との噛み合わせもあったとは思いますが、自分たちの「らしいサッカー」ができたと思います。その上で、3点決められたことも自信にもつながりましたし、やっていることは間違いないと実感しました。

今後の課題は何ですか?

課題が多すぎて。何から言えばいいのか…(苦笑)。個の部分は通用する部分があると思っているので、そこは伸ばしながらも、やはり『集の力』の改善が必要だと思います。コミュニケーション、ポジショニング、考えながらプレーすること、すべてが課題だと思っているので、徳島でじっくり学びたいです。そのせいもあってか、練習から頭は常にパンクしそうです。脳が酸素を使うので、いまは動きがぎこちないかも(笑)。でも、だんだんと馴染んでいけると思うので、トレーニングを継続していきたいです。

最後に自分の描く選手像や目標を聞かせてください。

長くサッカー選手であり続けたいと思っています。栃木と徳島では求められることも変わるし、状況が変われば異なると思います。強烈な何かが1つあれば選手として生きていけるかもしれませんが、僕はそういうタイプではありません。ただ、どんなときでも求められたことに対して結果で応えられる選手になりたいです。

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