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Vol.118 #2 田向 泰輝

Vol.118 #2 田向 泰輝  『チームがひとつになるという本当の意味を学べた経験が徳島に来て最も良かったこと』

水戸で育ち、始まった

サッカーを始めたきっかけを聞かせてください。

小学2年生のとき、親に無理やり始めさせられた・・・かな(笑)。自分でやりたいと思ったことはまったくなくて、当時はとにかくゲームが好きで、ずっとゲームボーイなどをやっていました(笑)。それを心配した親が「スポーツを始めなさい」と言ったのではないかと思います。地元のサッカー少年団で募集がかかっていたとか理由はわからないですけど。なので、きっかけはまったくないです(笑)。

親御さんはサッカーに熱心だったのですか?

いや、お父さんは野球をやっていました。なので、なぜサッカーを選んだのかもいまはよくわからないです(笑)。Jリーグが開幕して盛り上がってきている時期だったこともあるのかもしれませんね。

ずっと水戸市で暮らしてきたのですか?

生まれは千葉県なんですよ。2歳頃だったと思いますが、水戸市に引っ越し、そこから市内で何度か引っ越しました。友だちがしょっちゅう変わっていた記憶がありますね。

水戸市はどんな街ですか?

田舎だけど栄えてもいて、住んでいて居心地がすごく良かったです。

フットサルとの出会い

育成年代に影響を受けたできごとはありますか?

いまでは有名なチームかもしれませんが『malva(マルバ)』というフットサルチームがありました。そこで小学校4年生頃からフットサルを始めたことが自分にとって大きかったような気がします。サッカー少年団とは別に、週2回くらいの頻度で通うようになりました。

フットサルが面白くて、はまりましたね。狭い局面でどうプレーするかを学べました。当時教えてくれていた現・代表の※浅野(智久)さんという方がいるのですが、いまでも連絡を取り合う関係です。プロの世界も知っていて、フットサルクラブだけどサッカーにつながるフットサルを教えてくれていました。小学校6年生まではガッツリやっていて、全国大会にも出場しました。中学時代は学校の部活動以外の課外活動が禁止されていたのですが、こっそり行ってましたね(笑)。そして、中学のサッカー部を引退した瞬間にめちゃくちゃ通いましたね(笑)。

※『malva』 浅野智久氏 | https://malva-fc.jp/about/

『フットサルの経験が生きている』のですね?

いまもその経験が生きてるかどうかちょっとわからないですけど(笑)、当時はとにかくすごく大事な時間でした。特に高校時代まではアタッカーだったので。

どこのポジションでしたか?

SHとかトップ下とか。FWに近いポジションもやっていました。SBになったのは高校3年生くらいからですかね。高校2年生のときに何度かやって、高校3年生の途中から本格的にやるようになりました。ただ、本当の意味で本格的に始めたのは大学に進学してからです。大学ではSB一本に絞ってやっていました。高校時代の監督にも「特徴を生かすことや、その先でプロを目指すならSBの方がいい」と言われました。でも、高校時代はいままでアタッカーをやってきたプライドというか、アタッカーとして勝負したい気持ちがあったので拒否していましたね(笑)。

サッカーを続ける選択と
プロを目標に決めた高校時代

プロ選手も多く輩出している名門・流通経済大学へ進学。その経緯を聞かせてください。

結構早い段階で、高校1・2年生の頃には声をかけてもらっていました。ただ、僕自身の中でサッカーを続けるかどうかも決めていなくて「高校でやり切って終わってもいいな」という気持ちも少しあって「いろいろ考えさせてください」と返答していました。

でも、高校3年生のときに県大会で敗退して全国大会に出場できず、そのときに続けることを決めました。もし、全国大会に出場したりして最後までやり切ったと思えていたら辞めていたかもしれません。そこでやりきれなかったからこそ、まだサッカーで勝負したいという思いが生まれました。

高校サッカー部の解散式で、親やチームメイト全員がいる中で『親に一言』みたいな場面がありました。そこで「プロになって恩返しします!」と宣言した記憶があります。そのときにプロを目指してやるという気持ちになりました。

もし、高校時代に引退していたならば、何をしていたと思いますか?

なんだろー、わかんないなぁ。いろいろなことを考えた記憶はあるんですけどね。例えば『美容師』を考えた記憶も少しあります。高校時代、髪を切りに行くのが面倒くさくて、自分で髪を切っていたんですよ。すきバサミを買って、髪の切り方みたいな本も読んだりしながら。揃えるだけではなく、ガッツリ切ってましたからね。

コロナ禍が収束したとき、ファン感で『田向選手に髪を切ってもらう企画』をしましょう!

坊主にする覚悟がある人なら・・・(笑)。

研究熱心な性格のようですが、例えば勉強もできましたか?

自分で言うのもなんですが、できた記憶があります!

おおぉ! ハードルを上げましたね。

スポーツクラスだったので勉強する範囲が狭くて簡単だったことも正直ありますけど、学校の評定平均はめちゃくちゃ良かったです。テストの成績はスポーツクラスの中で圧倒的な1位でした。あと、自慢みたいになりますけど『小論文』の学年統一テストというのがあって、それは学年全体で2位でした!

「小論文得意」発言は、今後のインタビューでハードルが上がりますよ(笑)。

やめてください(笑)。書き方をちょっと勉強しただけですから。

プロになるための土台

大学の話に戻り、流通経済大学はなぜ多くのプロ選手を輩出していると思いますか?

特別なことは正直ないですよ。環境はプロのような環境だと言われることはよくありましたけど、中身は高校時代にあるような厳しさや泥臭い練習ばっかりやってきましたから。

人として成長できる環境だったことが一番大きかったと感じています。全寮制だったので、全員で共同生活する中でいろいろな仕事があります。サッカー以外のこともたくさん経験する中で、いままでやってきたサッカーとその環境で得られた物が合わさったときにプロサッカー選手としての土台ができたのかなと感じています。逆に高校までどれだけ有名で技術があったとしても、大学で苦労した選手というのは何人も見てきました。いろんな環境を経験したからこそ、難しい状況に陥ったとしても向き合って乗り越えられるようになった気がします。

影響を受けた選手、人などはいますか?

あまり影響を受けるタイプではなかったんですよね。もちろん仲の良い選手はたくさんいましたけど、考え方に影響されるというよりは、自分と向き合ってきたタイプでした。

インタビューで「目標にする選手はいますか?」みたいな質問ありますよね。パッと出ません。無理やり「この人!」とか、名前は出しますけど(笑)。もちろんプロに入ってからいろんな影響を受けた方はたくさんいます。ただ、その人にどっぷりはまるというよりは、尊敬できる考え方や参考になる考え方を学んで、良い部分を少しずつ集めて自分の中で消化して、理解して、自分の考え方になっていったという感じですね。

水戸で
プロキャリアをスタート
「自分の思っていた以上に
厳しい世界でした」

水戸ホーリーホックでのプロ入りの経緯について

結構遅かったです。練習参加したのは大学4年の9・10月頃だったと思います。いい感触を得られて、オファーをいただきました。オファーをいただいたときにはほぼ決めていましたけど、もうひとつの選択肢としては就職活動も並行しておこなっていました。

小さい頃、自分にとって水戸はどんなクラブでしたか?

自分に物心がついた頃くらいに、Jリーグに加盟したクラブだと思います。鹿島とすごく比較されていましたが、当時は規模が小さくてサポーターも少なかったと思います。

クラブとして成長し始めた頃に加入することになりましたが、実際に入ってみると思っていたことと違った部分が結構ありました。高校・大学の頃は「やれるだろう」と思っていましたが、実際に入ってみると全然違いました(苦笑)。普段の取り組みとしても、プレーとしても。自分が思っていた以上に厳しい世界でした。あらためて、プロの世界で戦っている人たちなんだと感じました。そして、もしかしたら水戸より恵まれていた他のクラブの人たちよりもサッカーと向き合っていた選手は多かったのではないかと感じますし、成り上がってやろうというメンタリティーを持った選手もすごく多かったと思います。

自分が育った街に戻り、エンブレムを背負った心境を聞かせてください

やはり知り合いがたくさんいる街で、すごく喜んでくれて試合も観に来てくれことは嬉しくて誇らしい気持ちでした。ただ、地元ということが自分の逃げ道にならないようには気をつけていました。気が抜ける環境ではあるじゃないですか。実家があって、友だちもいて。他の選手たちはまったく知らない土地に来て戦っている感じがしたので、俺だけリラックスできる環境にいる感じがしました。それが良いのか悪いのかはわからないですけど。

居心地が良すぎたがゆえに環境を変えることを選択する

水戸時代、最も記憶に残っているできごとを聞かせてください

一番の転機になったのはプロ2年目です。当時監督を務めていた柱谷哲二監督が成績不振で解任されました。その頃の自分はプロ1年目に8試合出場、プロ2年目も転機が訪れるまでは4試合出場に留まっていて「プロでやっていくのは厳しいな」と感じていました。

ただ、当時ヘッドコーチを務めていた西ヶ谷(隆之)さんが暫定監督として指揮を執るようになった一番最初の試合が転機になりました。第18節・C大阪戦(1△1)、スタメンに抜擢されました。そして、同点ゴールを決めたんですよ! それがマジで転機だったと思います。残留争いをしていて全員が「人生を変えるためにやってやろう!」という気持ちで臨みましたが、その中で自分もやれたと感じられる手応えを掴み、得点という形できっかけも掴めました。西ヶ谷さんと会うと西ヶ谷さん自身も「あのゴールに救われた」といまだに言ってくれますが、僕自身としても転機になった試合であり、ゴールだったことをよく覚えています。

振り返るとその手応えを掴むまでも練習ではやれていたというか、自分なりに意識しながら練習に取り組めていた実感はありました。そして、プロ初年度から出場していなかった選手を主に指導してくれていたのが西ヶ谷さんでした。もし出場していないからといって適当に練習をやっていたとすればチャンスも与えられていなかったと思います。出場はできていなくても、成長しようともがいていたことを観てくれて、評価してくれていた人がいたことは、自分にプラスαの自信を与えてくれました。

その後、徳島への移籍を決断します。その心境を聞かせてください。

徳島からオファーをいただく以前に、18年が始まった頃には環境を変えるべきだと自分の中で思っていました。その理由は、居心地が良すぎたからです。ある程度、安定したプレーができるようになり、自分の力を発揮する術も見えてきました。また、仲の良い選手もたくさんいて、オフになればみんなとも遊べます。でも、そういう居心地の良い環境が整い過ぎたからこそ、環境を変えない限りはこれ以上成長できないとも感じていました。仮に徳島からのオファーでなかったとしても、チームを離れる決断をしていただろうなと思います。

苦労を買いたかったわけですね?

居心地が良くない環境を求めていました。失礼な言い方に聞こえてしまうかもしれませんが、もはや「どこでもいい!」という気持ちもありました(笑)。もちろん、徳島のサッカーは好きだったので、結果的に徳島からオファーをいただけたことはすごく良かったです。

大袈裟に言えば水戸のサポーターから「移籍する必要があるのか」と反感を受ける場所だったとしても、とにかく自分にとって居心地が良くない新たな環境に飛び込んで、もがいて、もう一度成長したいという思いでした。

チームがひとつになるという
本当の意味を学べた

徳島の歴史で言うと19年は前年に苦い経験をした中でのスタートでした。加入してみていかがでしたか?

徳島の話自体は(岩尾)憲くんやトミさん(冨田大介)から聞いていて、チームとしても苦しんだ翌年なので難しいだろうなという覚悟もしていました。ただ、僕自身は苦しむ環境を求めていたので、むしろありがたかったです。また、リカルド(ロドリゲス監督)のサッカーは合う選手・合わない選手がいると聞いていたので、いろんな覚悟を持って来ていました。最初は全然上手くいかなかったですけど、むしろ楽しかったですね! いままでと全然違う考え方の監督でしたし、選手ばかりだったので。

「俺、求めてたの“こういうやつだわ!”」。そう思いながら毎日やっていました(笑)。

この3年間、どんな経験をしていますか?

まず、19・20年で「こう進めばチームは良くなるんだ」ということを経験しました。19年の最初を振り返ると、みんながバラバラになり始めたときはやっぱり結果も出なかったです。逆に何かのきっかけでひとつにまとまると、めちゃくちゃパワーって発揮できるんだなって実感したシーズンでもありました。そのパワーを20年につなげられたことが良い1年になった要因だったと思います。チームがひとつになるという本当の意味を学べた経験が徳島に来て最も良かったことです。

選手として、人として、この先の目標はありますか?

正直、それほど先のことまで想定していません。もちろん近い未来での目標はありますよ。でも、そういったことよりも、いま置かれている現状で、自分ができることをやり尽くしたい。そうすれば、その先は勝手に見えてくるものなのではないのかなと思っています。

中途半端に先を想定してやった方が、逆に先が見えてこないと思っていて。この先がサッカーであろうと、サッカーでなかろうと。とにかく、いまの自分ができることを、自分自身でやり切ったと思えるくらいにやること。

そのことだけに集中しています。

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