Vol.119 #22 藤田 征也
Jリーグ
通算400試合出場も間近
Jリーグ通算400試合出場も間近です。ここまでのプロキャリアを振り返ってみてください。
ここまで続けられる選手が多いわけではありませんし、恵まれていた部分も本当に大きいと思います。けがで出場できなかった期間もありましたが、もっと出場したかったという思いも強いです。
印象に残っているシーズンはありますか?
札幌時代、プロ2年目(2007)は印象に残っています。J2優勝し、J1昇格できたシーズンでした。自分自身、最も得点に多く絡めたシーズンでした。7得点を挙げて、9アシストくらいあったのではないかと思います。
苦労した時期はいっぱいありますが、徳島加入初年度の19年には悔しい思いがあります。最初は試合に絡めていましたが、けがで離脱してしまったり、その後も思うようにコンディションが上がらずにシーズンを終えてしまいました。前年に湘南をアウト(契約満了)になり「徳島をJ1に昇格させたい」という気持ちを強く持って加入しましたが、最後の最後で力になることができずに悔しい思いが残りました。
徳島について
チームの良さは若い選手が多くて、真面目な選手が多いです。将来性のある若手が多いとも感じていますし、いい雰囲気でやれています。本当にいいチームに来られたなと感じています。
徳島県については、まだいろんな場所へ行けていないんです。(コロナ禍以前の)19年も、かじ(梶川裕嗣 ※現・横浜FM)に「どこに行けばいい?」とおすすめを聞いても「わかりません、わかりません」ばかり答えられて(笑)。阿波おどりはすごかったですね! 自分たちが参加させてもらったこともいい経験になりましたが、普通に見に行きたいですね。ちゃんと見たいです!

サッカー人生の始まり
第21節・札幌戦は、地元・厚別での開催でしたね。どんな心境で臨みましたか?
札幌で試合すること自体がかなり久々でした。厚別での試合については(新潟所属時代以来)10年ぶりくらいだったのではないかと思います。後半、45分間出場できたことは個人的に嬉しかったです。
その地元・厚別で、サッカー人生が始まったきっかけを教えてください。
通っていた幼稚園でサッカースクールが開かれていて、もともとは兄が先にやっていたのでそこに僕も入ったような感じです。楽しかったように思います。その頃は周りの子たちと比べて、ずばぬけていたと思うので(笑)。
「ずばぬけていた」というのは上手かったということですか?
はい(笑)。一人で何でもやっていました。
天才自慢に聞こえますが・・・(笑)。
小さい頃は・・・、そうなんです(笑)。
ボールを蹴ることとか、上手にできた記憶があります。幼稚園のときってコロコロって感じだと思いますが、僕はボールを浮かしてバンバン蹴っていましたね。息子と比べても、僕の方がすごかったなと思います(笑)。
体も大きかったんですよ。小6で165センチくらいありました。
U-14から各年代別の日本代表にも選出され始めますが、当時のことを覚えていますか?
北海道では敵無しというか、そんな感じだったんです(笑)。でも、代表ではレベルの高い選手が多くて、もっとやらなければいけないと思いました。代表がきっかけで将来プロになることも意識するようになったのを覚えています。
名門チームに所属していたのですか?
小学校時代は地元にある普通のチームで、中学時代はプロ選手も何人か輩出しているチーム(SSSジュニアユース)にいました。自由にプレーさせてもらいましたが、基礎の部分はすごく教えてもらいました。
その後、札幌ユースに加入することになります。多くのクラブからオファーがあったと聞いています。事実ですか?
そうですね。7クラブくらい、声をかけていただきました。
時効だと思うので(笑)、どこから声がかかっていたのか教えてください。
(笑)。記憶が正しければ、広島、横浜FM、FC東京、清水、札幌、鹿島、柏だったように思います。でも、その当時の世代別代表に入っている選手の中で、クラブに所属していなかった選手が僕含めて数名しかいなかったので。それだけだと思いますよ。
結果的に札幌を選択されました。地元だからですか?
そうですね。あとは地元ということに加えて、ユースに所属しながらでもJリーグに出場できるチャンスがあるのは札幌なのかなと思って。できるだけ早くトップチームに絡んでいきたいという気持ちがありました。
中学時点で、高校時代には「プロで出場してやるぞ」という野望があったのですね?
はい。高校3年時の最終節(第44節・草津戦 ※現・群馬)で出場することもできました。
ユース時代に印象深いできことはありますか?
高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会で準優勝したことです。僕らの前評判は全然高くなかったですが、最終的に決勝まで勝ち進めたことは印象深いです。いい経験になりましたし、いい思い出にもなりました。
キャプテンも務められていたそうですね?
はい。キャプテンぽい感じではなかったと思いますが・・・(笑)。そんなに喋る感じではなかったので、プレーで引っ張っていくというか、そういう風になればいいなと思っていました。

チャンスを信じて
やり続けること
徳島ではSBというイメージが強いですが、本職は前線の選手だったのですね?
そうです。プロ入り時点では、SBでプレーするようになるとは思ってもいなかったです。
プロ2年目(2007)が最も印象深いということですが、その中でも最も記憶に残っていることは何ですか?
メンバー入りはしていましたが、最初はスタメンという感じではありませんでした。ただ、ホーム開幕戦の第2節・鳥栖戦(1○0)でチャンスが巡ってきました。スタメン出場予定だった選手がけがをして、2番手だった選手は体調を崩して、僕がスタメン出場することになりました。その試合でたまたま点を取って、勝っちゃいました。僕にとって、それがターニングポイントだったのではないかと思います。振り返ると重要な試合だったと思います。あのときがなければ、いまの自分はここにいないかもしれません。
いまのは成功例ですが、仮にチャンスを得られたとしても活躍できないときもありますよね。どういう考え方が大切だと思いますか?
チャンスを信じてやり続けることだと思います。仮にチャンスを得られたとしても、準備をしっかりできていないと結果は残せません。そして、インパクトを残せなかったとしても、やり続けていれば再びチャンスは巡ってくると思います。それを信じてやることだけですね。
プロとして長くやらせてもらってきた中で、いろんな選手と一緒に過ごしてきました。出場機会がなくなるとやる気がなくなってしまう選手も見てきました。自分はそうなりたくないと思って続けてきて、出場機会を得られていないときでもやり続けることを大切にしてきました。自分がそうだったように、若手選手には自分の取り組む姿勢は見られていると思います。
影響を受けた人はいますか? 選手やスタッフ陣でなくても構いません。
いろんな先輩から学ぶことはありましたが、石川直樹選手(2020シーズン引退)が印象に残っています。札幌や新潟で一緒でした。どんなときでも100パーセントでしたし、見習いながらやってきたつもりです。一緒にできたことは僕にとってプラスだったと感じています。

日の丸を背負った経験
世代別代表で印象深い時期、できごとはありますか?
一番は2007 FIFA U-20ワールドカップです。U-18、U-19のときは呼ばれていなかったのですが、Jリーグで出場するようになってから再び呼ばれるようになりました。本大会では決勝トーナメントにも進めて、チームとしての雰囲気もすごく良かったのを覚えています。もっと上まで行けるのではないかという思いもありましたが、いずれにせよ良い経験になりました。
U-18、U-19で招集されたなかったときはどういう心境でしたか?
自分の中でも調子が良くないと感じているときで、自分がやれていないこともわかっていたので、しょうがないと思っていました。なので、悔しさもあまりなかったです。
FIFA U-20ワールドカップで印象深かったチームメイトはいますか?
うめさん(梅崎司 ※現・大分)とか。当時、グルノーブル/フランスに所属していたと思いますが、海外クラブから合流してきました。あとは(柏木)陽介とかかなー。僕らの年代の中心でしたし、そういう選手たちと一緒にできたことは自分の中でいい刺激になりました。
時代背景として海外所属選手は少なかったと思いますが、海外クラブという選択肢を考えたことはありますか?
あまり考えもしなかったですね。海外へ行くのはフル代表に選ばれる選手の中でも、さらに中心選手というイメージでした。
当時と比較すると、海外という選択肢も広がったと思います。うらやましさはありますか?
うらやましいですね。もし僕がプロ2年目の活躍を評価されて、海外というチャンスがあったとすれば行っていたでしょうね。
仮に海外挑戦のチャンスを得られていたとすれば、何で勝負したと思いますか?
それはいまも変わりませんが、「クロス」や「縦への勝負」でしょうね。若い頃はもっとガンガン行っていましたし、勝負してみたかったですね。

自分自身の武器に
自信を持つこと
以前から「クロス」を自分の武器であると明言されていました。現段階で自分の武器を見出せずにいる育成年代の選手もいると思います。どんなスタンスで毎日励んでもらいたいですか?
見つけようとして見つかるものではないと思いますが、自分の得意なプレーを伸ばすことを考えながらやって欲しいと思います。もしかすると僕は左足も使っていた方が良かったかもしれませんが(笑)、結果的に右足を使い続けたことでここまで来られました。苦手な部分を直すことも大切ですが、個人的には得意な部分を伸ばしていくことの方が大切かなと思っています。
やはり「自分の武器」と思えることに自信を持つことは大事だと思います。仮に上手くいかないことがあったとしても、その武器を出すことでプレーにも自信が出てくると思います。僕なんかは試合の中で1本いいクロスを上げられれば気持ちがのっていきますね。なので、大切なことだと思います。
ポジションについてはどういう考え方ですか?
札幌時代はほぼ中盤というか、3バックの右、4バックのSHが中心でした。その後、新潟ではSBとして考えられて加入しました。ただ、途中から再び中盤での出場機会が多くなり、本当の意味でSBとしてプレーするようになったのは徳島に来てからですね。
長く務めてきたポジション、こだわりのあるポジションから変化を求められることについて。そのときの向き合い方で大切だと思うことは何ですか?
年齢を重ねたということもあるかもしれませんが、いまはSBの方が自分の良さを出せるのかなと思っています。ただ、新潟でSBと言われたときは「あまりやりたくないなぁ」という気持ちも含めて、あまり上手く行かなかったと思います。ただ、徳島に来てからSBとしてプレーするようになったときには「自分の良さも出してみよう」という考え方だったというか。気持ちの持ち方、考え方もあらためて大切なのかなと感じています。
何事もネガティブな発想で臨んでしまうと良い方向には進まないという考え方でしょうか?
そう思います。新しいポジションで挑戦すれば見え方も変わってくるでしょうし、その中で新しい発見もあると思います。なので、どんどん挑戦すべきだと思います。そして、ポジションが変わったとしても、プレーすること自体は大きく変わらないと思います。その与えられたポジションの中で、次は自分の良さをどう出していくかだと思います。

来たるべき、J通算400試合出場について
通算400試合出場達成のとき。その日を想像してみてください。
全然変わらないでしょうね。400試合を目標にやっているわけではなく、まだまだ通過点だと思っているので。もっともっと出場したいという気持ちが強いです。
いずれにせよ、その400試合目はスタメンで飾りたいですね。