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vol.124 #20 児玉 駿斗

Vol.124 #20 児玉 駿斗  『スタジアムに見に来る人を

サッカーにのめり込んだ

サッカーを始めたきっかけは何ですか?

昔は、運動が得意なお父さんと、お兄ちゃんとで、遊びでしたけど家族で公園に行って野球をよくしていました。でも、遊びと言いながら意外と本気で、右打ちから左打ちに変えたりとかちゃんとやっていました。ある日、お兄ちゃんが風邪をひいたか何かで野球の練習に参加できなかった時に友だちからサッカーに誘われたんです。それで吹田市(大阪府)にあるフィオーレというサッカーチームに体験入学をしたことで、サッカーにどっぷりはまりました。何歳だったか忘れたけど、小学校1年生の2学期までフィオーレに行ってたので始めたのはそれより前かな。

親の話を聞くと「毎日サッカーをやらせて」って言ってたそうです。でも、お兄ちゃんは習い事をしていなかったから、親としては弟だけというのは悩んだみたいです。ただ、お兄ちゃんは優しいから俺だけやらせてくれたのかもしれません。お兄ちゃん、バリ優しいっす。

大阪府出身でG大阪のファンだったと聞きましたが、いつから好きでしたか?

サッカーを始めた時からです。お母さんがツネさん(宮本恒靖)を好きだったんですよ。ちょっと記憶は曖昧ですけど、お母さんに連れられて俺も小さい頃から練習見学に行っていたのを覚えています。その頃から俺は「遠藤(保仁 ※現・磐田)!」って、ずっと言ってました。ファン感みたいなのにも参加していたガチのファンでした(笑)。写真を撮る時にも他選手には目もくれず「遠藤だけ!」って言ってたみたいです(笑)。

遠藤選手のどこが好きでしたか?

あんまり覚えていないけど、あのプレースタイルが好きって思っていました。昔から“スルーパス”が大好きで、そういうプレーを観て真似しました。

摂津FCの小学生時代について

フィオーレから摂津FCに移って、小学2年生頃からトップチームでちょこちょこ試合に出させてもらってました。でも、俺はめっちゃ小さいし、周りは6年生ばかりでバリでかいし、その頃は「行きたくない」って言ってた時期もあったみたいです。一瞬ですけどね。でも、監督はブレずに使ってくれました。

監督は、なぜ小学2年生をトップチームで起用しようと思ったか聞きました?

プロになるって思ってたみたいです。誰も走っていなくても、自分の感覚でスルーパスを出せそうだったら出していいって言われたりもしていました。

ドリブル主体の高校に入学

LEO SOCCER CLUBの中学生時代について

中学生になる前に、G大阪のセレクションも受けてるんですよ。その時は高校進学にも強かったし、サッカー自体も面白かったLEOと迷いながらって感じでしたけど。G大阪のセレクションは体が小さいのもあって「俺には無理なんかなぁ」と思いながら受けたのを覚えています。

LEOが高校進学にもつながるという話ですが、千葉県の中央学院高校もそのつながりのひとつだったのですか?

いや、進学した選手はいましたが、中央学院高校は必ずしもつながりではなかったと思います。

野洲高校(滋賀県)みたいなチームに行きたいなぁと思っていて、最終的に京都橘高校(京都府)と中央学院高校の選択肢があってどうしようか考えました。中央学院高校の魅力も感じたし、俺らの世代も全国大会に出場していた京都橘高校の魅力もありました。京都橘高校には練習会に4回位行ったかなぁ。お母さんは中央学院高校は反対でしたね。近くがいいってあったんやろうなぁ。でも、中央学院高校の監督が家に来てくれて、家族と話して決めた感じでした。

千葉県から大阪府に足を運んでまでスカウトしたくなる位の存在だったんですか?

それは、わからないです(笑)。俺に話を聞くより監督に電話をして聞いてくれた方がおもろいっすよ(笑)。

中央学院高校ってドリブルが魅力の学校ですよね?それまではパサーの児玉選手がなぜ行きたいと思ったのですか?

中学時代にも試合をしたことがあって「すごいなぁ」とは思いましたけど、「ドリブルしかせえへんやん」とも思っていました。でも、中学3年生だったと思いますけど、千葉遠征をした時に、中央学院高校と神村学園高校(鹿児島県)との試合を観ました。すごかったんですよ。その時にドリブルだけじゃなくって、パスもしていて。

「あれっ!?めっちゃおもろい」。

試合を観たのは10分位だったんですけど、その10分で進学先をほぼ決めました。

ドリブル主体のチームにパサーが加入したら浮かなかったですか?

最初からトップチームで、俺だけスルーパスOKでした。ドリブルは、えのくん(榎本大輝 ※徳島にも2020年に在籍)を見て学びました。そこに自分のスルーパスを出せるようになればなって思いながらやっていました。あとは、本当にみんな凄いドリブラーばかりだったから、その人たちを俺はどうやって料理しようかなって感じでした。

ドリブル主体って、ルールだったんですか?

ルールってわけじゃないかもしれないですけど、時には相手コートに入ったらパス禁止みたいなこともありましたね。えぐいドリブラーしかいなかった。でも、俺だけパスOKでした。俺みたいなパサーはなかなか行かへん学校やと思います。

余計に監督がなぜ児玉選手をその中に混ぜたかったか気になりますね。

中央学院高校の浜田寛之監督が出した本に書いてあったかな。

あっ、あと高校とは関係ないけど中学はマジ厳しかったって話だけ追加しておいてください。社会の厳しさというか、人間力がバリ高まった感じがする。

昔からスルーパスが
好きなのは変わらない

東海学園大学(愛知県)の大学時代について

中央学院高校の上手い選手が東海学園大学に進学するルートはもともとあったんですけど、最初は決められているレールみたいで嫌だったんですよ。なので他の大学にも練習参加していたりしていました。でも、最終的には東海学園大学に行きました。

小・中・高・大と共通して、何を基準に決めたのですか?

「おもろそう」かどうか。

サッカーを始めてからプロになるまで、間違いなく指導者に恵まれ続けてきています。大学の監督も入学前に一度だけご飯に行って話をしました。不思議な人でしたけど、“おもろそう”やなって思いました。あとは知っている選手も何人かいたから、それも大きかったかな。

「どの指導者も自由を与えてくれたからこそ、自分自身に責任感が生まれた」という趣旨のコメントもよくされますよね?

チームを勝たせるために俺は周りを使うプレースタイルやから、余計にかな。

児玉選手はずっとボランチタイプの中盤ですか?

SHもたまにはやったことありますけど、ずっと中盤ですね。ゲームを作る側の人間です。一番は昔からスルーパスが好きで、それは今も何も変わってないかな。

どんなスルーパスが最高ですか?

味方が追い付かなさそうで追いつくパス。ピッタリすぎるより、追いつかない位で追いつくようなイメージ。もちろんDFは絶対に無理ってやつ。そういうのがめっちゃ面白いなぁって思います。浮き球もそう。相手がギリギリで頭が届くか届かないか。どれも相手の逆を取るのが好きです。相手の逆を取ることってサッカーにおいて絶対条件。メッシもネイマールも相手の逆を取りまくり。ドリブルだけじゃなくてパスにもそれは絶対にあるし、ゲームを作る時も絶対にある。

大学時代、一番印象に残っていることは?

卒業できたこと。

質問の意図と逆を取られました。違うなぁ(笑)。全日本大学選抜みたいな話を聞きたかったのです。

代表ごとみたいな時には意外と得点に絡めたりして、持ってたのかもしれませんね。

始めはデンソーカップチャレンジサッカー(大学サッカーの地域別対抗戦)だったかなぁ。それがきっかけで、全日本大学選抜にちゃんと呼ばれるようになって、デンソーの後に直ぐ名古屋への加入内定が決まったかな。

大学1年生の時に決まった
プロ内定

名古屋との接点はいつでしたか?

大学1年生の終わり頃かな。強化部の人たちはデンソーみたいな大会は絶対に見に来ているし、大学の監督も駿斗が練習参加に行ったら絶対に決まると思っていたみたいな話をしてくれました。

大学1年生でのオファーも決断もすごく早いタイミングですよね?

後先はあまり考えてなかったです。当時指揮を執っていた風間(八宏)監督と出会って、上手くなるために行きたいって思って決めました。

大学1年生の終わり頃には決まったので、大学の後の約3年間はプロ選手が授業を受けているみたいな感じですごく見られる立場でした。得点を取った時とかは授業終わりにサインをお願いされたりしたこともありました。でも、こんな性格やから、みんな変わらず接してくれてたかなぁ。気を遣ってくれてたのかもしれない。あとは自意識過剰かもしれないけど、良くも悪くも目立つから、おとなしくしていました。

大学の公式戦とか、対戦相手から「プロおるぞ」みたいな扱いはされなかったですか?

やばかった。「うぇーい、ボール取った!」みたいに言われたこともありましたし、逆にボールを取りに来てくれなくなったり、いろんな悩みはあったね。でも、それは宿命ですよね。

そんな悩み多き中でも『全日本大学選抜』に参加できていたことは良かったんですよね?

良かったですね。一番影響を受けたのは、サッカーを上手い人たちがこんなに意識高いんやって驚かされて、俺もやらなあかんって思わされたことです。

誰に影響を受けましたか?

あんまり名前を言うのはしたくないですが、(三苫)薫くん。影響を受けました。食事にしても意識がすごく高かった。俺は大学時代に自炊してましたが、食べる物も考え直すようになった。それからコロナとかも・・・

ちょっと待ってね。話を遮りましたが、コロナ禍って大学生!?

そう。大学3年生の終わり位だったかな。だから4年生は全然試合をしていない。1カ月自宅待機とかでしたから。

ということは、『第30回ユニバーシアード競技大会』で優勝したのは何年生の頃ですか?

3年生の頃ですね。でも、この時は大会に選ばれる直前に柏と試合をして怪我をしてしまったのでメンバーからは外れると思っていた。それでも選んでくれた松本直也監督には感謝しかないです。大会に行ってからも第2節・ロシア戦(4○1)でバリでかい選手にけずられて、折れたと思った(苦笑)。けど、準決勝のイタリア戦(3△3※PK5-4で勝利)に「先発で行くぞ」って言われて先制点を取れて「やっぱり俺持ってるな」って思った(笑)。

それにしても、そうそうたる顔ぶれですね?

強すぎたからめっちゃおもろかった。俺は周りを活かしてあげることに徹していた。あとは、守備ですね。全日本大学選抜に呼ばれるようになってから守備をものすごく求められるようになって、守備をやらないと残られへんねやって強く思うようになりました。

大学卒業後、プロ入りしてサッカーに対する考え方は変わりましたか?

うーん、いい意味でプロ入り前の方が何も考えずにやれてたかなぁ。プロは生活がかかっているし、みんなもそれでやってるし、重みを感じるようになりました。


おもしろいプレーをしたい

でも、仕事になってからも「おもしろいプレーをしたい」は変わってないですか?

それは変わらへん。スタジアムに見に来る人を楽しませたいって気持ちはずっと持っています。

どんなプレーでスタジアムを沸かせたいですか?

やっぱりスルーパスは気持ちいいよね。逆を取るプレーもそうですね。

徳島に加入し、どんな影響を受けていますか?

昨シーズン試合にたくさん出させてもらって、日本とは違うサッカーを勉強して、自分のためになるって思いました。考え方も変化させないと生き残れないとも思ったし、そういう覚悟で来ていたし、その中で試合に出てなんぼとも思っていました。

この先の目標とか、なりたい自分はありますか?

こうなりたいというか、今まであまり考えずにサッカーをやってきていたけど、徳島に来てからは試合に出られる時も出られない時もメンタルの部分をすごく勉強をしていると思います。あとは自分にどれだけ打ち勝てるかかなぁと思っています。

どんな状況でも人のせいにするのは簡単やと思うけど、結局、その後は自分やから。俺もネガティブなことを言っちゃう時もあるけど、最終的に自分がやらなければって思えているから、それはいい方向なのかなぁと思っています。その考え方を継続する難しさはあるけど、サッカー選手としてだけではなくて、人としてもそうありたいです。

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