Vol.125 #39 西野 太陽
全国レベルを肌で感じた
徳島県人選手ですが、どこ出身ですか?
佐古です。千松小学校、城西中学校に通っていました。
何がきっかけでサッカーを始めましたか?
小学1年生の時に、友達から「1回体験してみない?」と誘われて田宮ビクトリーサッカー少年団の練習へ行きました。楽しくて、やってみようかなと思ったのがきっかけです。
県内有数の強豪チームですが、
どのような指導を受けましたか?
学年ごとに分かれていましたが、監督は実力があれば積極的に起用してくれる方でした。僕の同級生の近藤蔵波選手(※中学以降はセレッソ大阪の下部組織に加入。海外経験を経て現在はFC徳島に在籍)なんかは、小学3~4年生の頃から小学6年生と一緒に出場していました。チャンスが全員に満遍なくあるいい環境で、僕は小学4年生の終わり頃か小学5年生の頃からFWやサイドで出場するようになりました。
当時、県内では敵無しだったと記憶しています。思い出に残っている大会はありますか?
小学6年生の(第38回)全日本少年サッカー大会です。C大阪U-12に(2次ラウンドで)負けたのですが、勝ち進んだC大阪が優勝しました。その大会で県外のレベルがどういうものなのかという基準が自分の中でできたと思います。※ちなみに当時のC大阪U-12監督は、現・徳島ヴォルティスの大谷武文アカデミーダイレクター。
中学時代、徳島ヴォルティスジュニアユースに所属していますがスカウトされたのですか?
そうです。クラブハウスに呼んでもらって面談をしてもらいました。同じチームのFW一宮優斗選手、CB上田優人選手、CB河野陸選手と4人で行った記憶があります。全員が加入しました。
当時は誰から指導をうけましたか?
薮内敏郎監督(現在もジュニアユース監督)、大島康明コーチ(現・鹿児島ヘッドコーチ)、行友亮二コーチ(現・ジュニア監督)、佐藤瞬コーチ(現・ユースコーチ)などから教わりました。
特に大島コーチからFWとして一番大切なことを教えてもらったというか、「自分の現役時代と似ている」(大島コーチ)と言ってくれてFWとしての感覚をどう活かすかやアイデアを広げることなど、ことある毎にいろんな指導をしてもらいました。中学1年生の頃でしたが、自分が一番成長した時期だったように感じています。
ジュニアユース時代、
一番思い出に残っていることは何ですか?
四国では一番強かったと思います。でも、クラブユースなどに行って関東や関西のチームと対戦すると、代表クラスの選手も多くて全然違うレベルにいることを痛感させられました。覚えている選手で言うと、横浜F・マリノスジュニアユース追浜にいたブラウン ノア賢信選手(現・沼津)が一番印象に残っていて、FWなんですけど何でもできる選手でした。チームとして負けたというよりも、その一人に個人でやられたというインパクトも強くて一番悔しかったです。そういう経験をして、余計に県外へ飛び出して成長すべきだと感じました。




県外に飛び出して成長を
ジュニアユース時代にボールボーイとしてスタジアムにも行っていたそうですが、どんなことを覚えていますか?
引退された佐藤晃大選手(現・フロントスタッフで営業推進部兼クラブコミュニケーションオフィサー)であり、現在のチームメイトである渡大生選手もよく見ていました。渡選手のボレーシュートなんかは、僕だけじゃなくて、ジュニアユースのFWみんなが真似をしていました。練習でクロスが上がったら、わざとボレーシュートを打ってみたり真似ばかりしていました(笑)。中学生なんかは特に真似をしたがるものだと思いますが、みんなでいろんな選手を真似していましたね。
他には、ウォーミングアップの時に長谷川徹選手がボールボーイの僕らにもめっちゃ話しかけてくれて嬉しかったです。あの頃って、試合前に小さいサイン入りボールをスタジアムに投げ込んでいたのを覚えていますか?徹くんは、あれを僕らにくれるんですよ!それが嬉しくて、ジュニアユースの僕らは「長谷川選手! 長谷川選手!」って群がってましたね(笑)。僕も1度その争いに勝って、ボールをもらったことがあります。今も実家に置いてあります。
西野選手がジュニアユース在籍時の2015~17年は、クラブ初のJ1昇格からJ2降格を経験した直後でした。小林伸二監督(現・北九州SD)、長島裕明監督(現・北九州ヘッドコーチ)、リカルドロドリゲス監督(前・浦和監督)と複数の指揮官を経て、徳島ヴォルティスの方向性がグッと固まっていった時期でもあったように感じます。アカデミーはどのようなコンセプトでしたか?
トップチームを参考にしながら僕らも年々変化していった感じがします。でも、変化はありながらも基本的にはボールを大切にしながら繋ぐスタイルは3年間を通して一貫していました。
小学生時代や中学生時代の経験を経て「県外に飛び出して成長すべき」という気持ちが高まって行ったというお話ですが、県内に留まって徳島ヴォルティスユースという選択肢もあったのですか?それとも県外へ行くと決めていたのですか?
県外へ行くと決めていました。小さい頃から全国の舞台を経験させてもらえて、全国のレベルに自分が追い付いて、そこを基準にしなければ大きく成長はできないという想いが強かったからです。
京都橘高校(京都府)に進学されましたが、そこでは何が一番印象に残っていますか?
やはり選手権ですね。どの大会も高校サッカーならではのものはありましたが、選手権は特に盛り上がりや一人ひとりの懸ける想いが強くて、どの試合も緊張感がすごくて楽しかったですね。全国大会の舞台になれば余計に。
何年生からトップチームに所属していたのですか?
高校1年生の時からです。高校1年生の選手権は京都府予選で敗退してしまいましたが、高校2年生以降は全国大会に行っています。
現地の記者仲間に聞いた話ですが、選手権予選か何かで得点した時に『LOVE VORTIS』っぽいことをしていましたか?
高校3年生の時にチームメイトとそういうパフォーマンスをやっていました。でも・・・・(苦笑)。大分時代に藤本憲明選手(現・鹿児島)の『Love Trinita(ラブトリニータ)』というのがあったじゃないですか。きっかけは、それを真似していたんですよ。そうしたら同時期にヴォルティスでも『LOVE VORTIS』が誕生していました。
くー!!きっかけ違いでしたか。いずれにせよパフォーマンスなどでもスタジアムの一体感が増すことを実感しましたか?
はい、感じました。やっぱり勝った後の挨拶が一番喜びを爆発させられますね。僕はその時に一番感謝を伝えやすかったです。
徳島に戻って
今シーズンの第18節・町田戦(2○1)、ゴール裏で勝利後の挨拶をしていました。あれはプロ入りしてから初の経験でしたか?
メガホンを持たしてもらったやつですか?であれば、あの時が初でした。
どうでしたか?
ばり声小さかったでしょ?(笑)。もっと響くと思ったので普通にしゃべったのですが、その時の動画が僕に送られてきて「声ちっちゃ。こいつ(自分)、何言ってんの!?」って思いました(苦笑)。
(笑)。ちなみに、どんな挨拶をしましたか?
「応援ありがとうございました。ここから強い徳島を取り戻していくので引き続き応援よろしくお願いします。」だったと思います。
挨拶は緊張しますけど、あのような景色を見るためにサポーターの皆さんはスタジアムに来てくれていると思いますし、何回もできたらいいなって思ったのが率直な気持ちでした。
話は前後しますが、プロ意識はいつ芽生えましたか?
明確にプロ選手を目指し始めたのは小学5年生で全日本少年サッカー大会に出た時です。優勝したのは鹿島アントラーズだったと思いますが、決勝を見に行ってこんなにレベルが違うんやと力不足を感じたと同時に「プロになりたい」と思いました。
高校時代も徳島ヴォルティスの強化部とはつながりがありましたか?
高校1年生の頃から見に来てくれていました。初めて練習参加させてもらったのは高校2年生(2019年)の夏前くらいやったと思いますが、選手全員のスキルが細かい所まで本当にレベルが高くて、半端な集中力でやっていたら練習にもついていけない位の差を感じました。まずは基本の『止める・蹴る』が大切だとあらためて感じました。その時は本当に何もできなかったです。
いろいろな選択肢はあったはずですが、地元・徳島のクラブでプロ生活をスタートしようと決断した理由は何ですか?
練習参加した時に徳島の練習が楽しくて、上達を一番できるクラブだと感じました。強化部の方からもそう話していただきましたが、自分自身もそう感じました。「ここでやれば絶対に上へ行ける」と確信したことが決めた理由です。
プロ入り後の3年間で数多くのできごとがありました。例えば、クラブ2度目のJ1挑戦であり、リカルド監督からダニエルポヤトス監督(現・G大阪)へ交代、J1残留争いやJ2降格、J1参入プレーオフ進出争いの19戦無敗記録、W杯やルヴァン杯の影響による大型連戦、ダニエル監督からベニャートラバイン監督へ交代、コロナ禍時代のJリーグなど・・・etc。どのようにフィットしていきましたか?
プロ初年度のJ1の時から少しずつ試合に絡ませてもらいましたが、正直に言うとプロ1~2年は自分らしさを全然出せなかったと感じています。自信を失いかけていた時期もありました。そういう意味ではフィットするまでにかなり時間がかかったと思います。
そうなんですね。プロ初年度もJ1リーグ戦で出場した試合であり、天皇杯3回戦・神戸戦(0●1)などで躍動したプレーも感じたので、もっとポジティブな記憶なのかと思っていました。
確かに天皇杯・神戸戦は、やられた感もありましたが、やった感もありましたね。その試合は現在にも活きている一番の経験だったと思います。古橋亨梧選手をはじめ、日本でトップレベルの選手が何人もいる相手と直接対決して、これを基準にしなければいけないとはっきりした経験になりました。それ以降、練習の取り組み方も自分の中で変化したように思います。


夢を与えられるような選手になる

この3年間で、一番印象深いできごとは何ですか?
どの時期も自分にとって大切な時間ですが、一番は今シーズンです。本来得意としてきたFWでも試合に出られて、右WGや右WBではプロ1~2年目の経験が糧になっています。
開幕戦の第1節・大分戦(1●2)で記念すべき今シーズン初得点を挙げた感想はいかがでしたか?
久々にFWとしてゴールを決められました。感覚はずっと研ぎ澄ませていましたが、開幕戦という緊張感のある試合でゴールを決めることができて嬉しかったです。あのゴールがあって、自分自身の中でいいスタートを切れたと思います。
徳島県人選手が開幕戦から出場してクラブとしてのシーズン初得点を決めたニュースは、徳島県人の多くの方が嬉しかったはずです。期待を背負っている実感はありますか?
あります。県民として、徳島県の力になりたいと思っています。そのためにはピッチでどのような表現をできるかが大切になると思いますし、ピッチ内だけではなくピッチ外でもそうですが、サッカー選手としていろんな人に元気を与えられるようになりたいです。
中学時代につけた徳島ヴォルティスのエンブレムを、今度はプロ選手としてつけて特別な想いはありますか?
気負いはしすぎていません。でも、想い入れのあるクラブであることに間違いはありません。ここで過ごせることに日々感謝をしながらサッカーをしています。
先ほどジュニアユース時代に影響を受けた選手の名前が挙がりましたが、今度は『西野太陽』が見られているかもしれないという意識はありますか?
はい。そういう経験があるからこそ、夢を与えられるような選手になることが本当に大切だとプロ選手になった時に思いました。
模範になるようなサッカー選手になりたいですし、自分が経験したように子ども達に夢を与えられるような選手になりたいです。もちろん個人としてはまだまだ足りないことが多いです。でも、毎試合収穫もあって、成長も感じられています。早く、皆さんの期待に応えられる完璧な選手になれるように頑張ります。
