Vol.80 相澤 貴志
毎試合、試合に出るという
スタンスで準備してきた
相澤選手は川崎フロンターレ、セレッソ大阪、FC町田ゼルビアを経て、昨シーズンはJ1清水エスパルスに所属。今シーズンからヴォルティスでプレーすることを決意した理由をこう語る。
「またJ1でプレーしたいという気持ちを持っているので、ヴォルティスは昨シーズンJ1を経験している上にさらに成長していく可能性を持った、これからよりよくなっていくチームだということが大きかったです。新加入会見の時にも“J2で優勝して、J1昇格の年に優勝したガンバのように”と言いましたが、それが可能なチームだと思いましたし、自分もその一員となりたいと思って加入を決めました」
今シーズン、相澤選手、渡辺泰広選手の2人が新加入し、ヴォルティスのゴールキーパーは3人体制となった。
「チームに合流して感じたのは、個々の能力の高さです。色々な経験をしてきた選手がいて、技術のある若い選手もいて、うまくまとまれば面白いチームになると思いました。その中でキーパーは昨シーズン、レギュラーだった徹(長谷川徹選手)、若い年代の代表に選ばれた経験を持つヤス(渡辺泰広選手)共に技術がしっかりしていて、いい競争ができそうだと思ったんです。ゴールキーパー3人で声を掛け合い、切磋琢磨しながらいい雰囲気で練習を盛り上げて行こうと心がけています」
開幕戦では昨年、シーズンを通して出場した長谷川選手がスタメンに選ばれた。
「試合に出ても出なくても常に同じ準備をするというのが、ずっと変わらない自分のスタンスです。だから開幕戦も自分が出るというイメージを崩すことなく、試合当日を迎えました」
そんな中、前節で負傷した長谷川選手に代わり、第13節V・ファーレン長崎戦にスタメン出場。公式戦出場は半年ぶりだった。
「連戦中で次の試合まで中2日と間隔が短く、じっくり準備に充てることはできませんでしたが、毎試合、自分が試合に出るというスタンスでいたので、いつもと変わらない気持ちで試合を迎えました。5連戦の最後で試合に出ていた選手たちは疲れもあるだろうし、セットプレーなどによる流れの切り替えが試合のポイントになるだろうと思っていたので特に注意しました。チームはなかなか勝ち切れずに引き分けが続いていたので、自分が入ることで流れを変えられればと思い、試合に臨みました」
V・ファーレン長崎戦では相手と1対1となり、至近距離から打たれたボールも果敢にセーブするなど、相澤選手らしいプレーが見られた。
「至近距離からのボールなどは最後までしっかり見て体に当てられる自信があります。これからもどっしり構えてチームに安心感を与えられるプレーをしていきたいですし、自分のやりたいイメージを実践して試合のリズムを変えられるようにもしていきたいです。ふだんの練習では攻めている時の後ろのポジショニングについて積極的に声をかけています。攻めている時のリスク管理がしっかりしていれば、早めにディフェンスの主導権を取ることもでき、結局、攻撃にもつながっていくからです。ゴールキーパーとしては、1本で相手の裏にボールを出せるようなフィードなども見せていきたいですね」
導かれるようだった
ゴールキーパーへの転身
ゴールキーパーになったのは高校1年生の夏と決して早くはない。新潟大学教育学部の附属小学校、中学校に通い、当時のポジションはフォワードだった。
「強いチームではなく、顧問の先生も忙しくてなかなかつきっきりで指導してもらえないような環境の中、自分たちで工夫しながら練習をしていました。一般入試で入学した高校のサッカー部は部員も多く、スポーツ推薦で入った選手もいて、自分は埋もれてしまいそうな気もしていました。何かアピールしなければいけないと考えていた時、監督にやってみないかと声をかけられたんです。当時から体が大きかったですし、キック力もあったからだと思います」
いろいろな出来事が重なり、キーパーへの転身は導かれるようだったと振り返る。
「ちょうどアトランタオリンピックで日本代表がブラジル代表を破った試合があり、川口能活選手(現・FC岐阜)のプレーを見て“ゴールキーパーって凄いな”と思って興味はあったんです。小学生の時にやっていた剣道や水泳でも人並み以上にやれていた自信があったので、何でもこなせるだろうという変な自信もあったんですよ。だから監督から誘われた時にもスムーズに決断できました。さらに、高校2年生の時には、清水エスパルスに練習参加させてもらい、初めて本格的なGKの練習をさせてもらうと同時に、プロサッカー選手を意識するようになるきっかけにもなりました」
高校卒業後は練習生として、2000シーズンに川崎フロンターレに加入。チームがJ1に初昇格した年だった。
「1年目は試合に出るどころか練習についていくので精いっぱいでしたが、キーパーを始めてから少ししか経っていないわけですから、それは当たり前だとも思っていました。J2に降格した加入2年目は他のキーパーのケガやチームの調子が出なかったこともあり、出場のチャンスもありましたが、とにかく緊張して真っ白になったことは覚えています。9試合出場しましたが、自分もケガをしてしまったこともあり、それから加入5年目までの約3年間は、試合に1度も出られませんでした。それでも自分には足りないものが多すぎると分かっていたから、なんで出られないんだと不満には思わなかったです。試合には出られなくても浦上壮史さん(前・清水エスパルスGKコーチ)というすばらしい手本が身近にいて、プレーだけでなく、サッカーへの姿勢などを学べたことが大きかった。さらに練習でジュニーニョやガナさん(現・カマタマーレ讃岐 我那覇和樹選手)といった名だたるフォワードのシュートを受けることで自分の技術レベルを上げてもらったと思います」
ブレずに目標を
持ち続けることが大事
川崎フロンターレが再びJ1に昇格した2005シーズン、加入6年目にJリーグヤマザキナビスコカップに出場したのが約4年ぶりの試合出場となった。
「2年目に初めてリーグ戦に出場した時とは違い、積み上げてきたものが自信につながっていました。ナビスコカップをきっかけにリーグ戦にも出場して勝利できたことで、そのシーズンは22試合、翌2006シーズンは24試合に出場することができたんです」
2006シーズン、チームはJ1リーグ2位でシーズンを終了。チームも強くなっていく中で、2007シーズンは川島永嗣選手(現・スタンダール・リエージュ)の加入などもあり、相澤選手の出番は再び限られることとなった。
「エイジ(川島永嗣選手)が入ってきて試合には出られない時期ではありましたが、加入してすぐにエイジが日本代表に選ばれたこともあり、より高いレベルで競争が出来ると、自分ではプラスに捉えていました。2008年シーズンにはセレッソ大阪が自分を必要としてくれて、初めてフロンターレ以外のチームでのプレーも経験し(期限付き移籍)、J2の舞台でヴォルティスとも対戦しました。ドゥンビア選手のスピードは今でも印象に残っています。
その後、2010シーズンはエイジのワールドカップ出場後の移籍によって、再びチャンスを掴むことができました。どれだけ活躍しても、0に抑えない限りは“川島選手の抜けた穴は大きい”と言われてしまうだろうと、大きなプレッシャーがありましたが、絶対にそうは言わせないという僕の意地で、再開後の試合を完封することが出来たのはうれしかったですね。その後のパフォーマンスにも自分で納得できましたし、レベルの高いところに目標を掲げてチーム内でも切磋琢磨してきたことが返ってきたなと感じ、ブレることなく続けてきたことが良かったと実感できたシーズンでした」
そして2012シーズン、高校卒業後12年間を過ごした川崎フロンターレを退団し、J2のFC町田ゼルビアへの加入を決意する。
「フロンターレからの退団が決まり、いち早く声を掛けて来てくれたのが町田ゼルビアでした。当時の町田はJFLからJ2に昇格し、攻撃的で魅力的なサッカーをするこれから上をめざす勢いのあるチームでした。しかし、一方で練習の多くは人工芝、スパイクなど道具一式は全て自分で管理し、試合の遠征もほとんどが長距離のバス移動という、サッカーをする上での環境はガラリと変わりました。JFLに降格してしまい翌シーズンはJFLでのプレーも経験しましたが、そんな厳しい環境でも“J1で再びプレーする”という目標のために、フロンターレの時にやっていたこと、具体的にはトレーニング、ケア、栄養管理の3点を徹底してこだわってやり続けました。その結果として清水エスパルスからオファーをいただき、再びJ1でプレーすることができたのだと思います。このことでブレずに目標を満ち続け、行動することが改めて大事だと感じました。今シーズンヴォルティスでもきっと自分の目標は達成できると信じています」